朝早くに目が覚めてしまった。今日は教会が夕方からなのだが。こういう時に早く起きてしまう。それも充分に寝たわけではない。だから今ちょっと眠い。
洗濯をする。洗濯機、小さいなぁ。2度に分けて洗わなくてはならないのが面倒。
洗濯機を回している間に寝てしまった。起きてすぐにシャワーを浴び、labに行く。cashmereのfilmを受け取り、教会へ。今日は夕方からの礼拝だった。
これはまた僕が言うことではないのかもしれないが、まあ自分に対しての戒めでもあると考えて、言う。
なんだか、受洗というものを勘違いしているクリスチャンって多いんじゃないか。受洗って決してゴールじゃない。スタートなのだ。受洗しました。僕はクリスチャンになりました。終わり。
そうじゃない。クリスチャンになったからといって、聖書を参考にします、神様を信じます、で終わってはいけないのだ。僕達は、答えなくちゃいけない。クリスチャンにはクリスチャンのやるべきことがあるのだ。クリスチャンになった時点で神は喜んでくれるだろう。だからと言ってそれ以上は何もしなくて良いかというとそうではない。どうもそこのところを理解していない人が少なくない。神様に全てを委ねるが、委ねると甘えるのあいだにはものすごーく大きな違いがある。
受洗する時点で、その辺の勉強もしているはずなのに、そして、それに対して誓いを立てているはずなのに、やはり頭では理解している気になっても、行動が伴わないことがある。行動が伴わないってことは、結局何もわかってないってことだと思う。
最初の捉え方を間違えてしまうと、そのまま進んでしまう危険性があり、それは神の望むところではないんじゃないか(望まなかったら受洗させないか)。もちろん受洗してからそのことに気付いても良いと思うし、そういう人もいるだろう。だけど、そうじゃない人も沢山いる。僕だっていつそうなるかわからない。っていうか、もうそうなっている可能性だってある。
大切なことは人数を増やすことではなく、1人1人、クオリティの高いクリスチャンを育成することだ。そういう意味で、見極めることも大切だと思う。受洗するのであれば、その新しい人間に対して、僕達はある意味「責任」を持つということも必要だろう。
・・・と、敢えて書いてみた。これは僕が宣教師でないから言えることだというのはわかっている。だから、これはあくまでも僕の思ったことである。反論して欲しい。
いや、違うな。これは宣教師や牧師だけに言えることではない。福音を伝える僕達1人1人のクリスチャンが考えるべきことだ。素晴らしさを伝えるのは大切だ。しかし、相手がきちんと理解してくれているか、見極めながら伝えていくことが大切だ。
夜はNさんちで正ちゃんの誕生日会。ケーキがなかったので、ピザに蝋燭を立てて祝った。ドイツの地ビールを飲む。泡が立たないビール。でも旨いねぇ。おめでとう。
投稿者 tomo : 10.10.04 21:10 | トラックバック