27.07.04

幸いな人。

 以前Nさんから頂いた「幸いな人」という冊子の中に、「みんなに紹介。幸いな人み〜つけた」というページがあり、そこに幸いな人として選ばれた数人の意見が載っている。その中の一人はこう言っている。
 
 「・・・。大きな問題があっても立ち向かえる勇気と力を頂いています。
  先日も親からの迫害があり、感情に流されそうになったのですが、
  その日に”主に従う”ということを語られました。
  今は献身者の道を歩んでいます」

 僕にはどうしてもこの人が「幸いな人」であるとは思えない。この人は聖書の言っていることを勘違いしてとっている。聖書を全て理解するのは一生かかっても無理だと思うが、誤った取り方をするくらいなら理解しない方がマシである。そして、誤った理解をしている人が近くにいたら、周りのクリスチャンの人達は、何かアドバイスをしてあげるべきである。
 聖書に書いてあることをどう取るかは人それぞれだし、それを間違いとは言えないという意見もあるかもしれないが、親のすることを迫害と言い(たとえそれが暴力であったとしても)、でも最終的には神について行くことを選ぶことが出来た、というような「親よりも神」的考え(人によっては「親は二の次」的考え)には正直怒りを感じる。そして、この時点でこの人は大きな問題に勇気を持って立ち向かってはいないではないか。
 クリスチャンになることで、親とほとんど絶縁に陥る人間って少なくないんじゃないか?それは別にどっちが悪いというわけではもちろんないが、親の方は息子や娘が信じるものを、同じように信じるとまではいかないまでも、理解するように努力すべきだとは思うし(それが子供を信じるって事だと思うし)、子供は子供で親に理解してもらえないとしても、そこで諦めずに理解してもらえるように努力すべきである。それをやっていない人間は聖書読み直せ、と敢えて偉そうに言ってみる。「これだけ気持ちを伝えてもわかってくれないんだったらもう親にわかってもらわなくてもいい、私には神様がいてくださる」なんて思ってしまっている人は(僕はこういう人いると思っています)、神を愛していますなんて言うな。

 ここに書いてあることだけを読み、僕はこのような考えを持った。実際この人に直接話を聞けば僕もこのような取り方はしないかもしれない。しかし、この本にはこれしか書いていない。これだけでは僕がこのように考えても仕方がない。もしかしたら僕は大切なこと見逃しているかもな、と思わないでもないが、そう思ってもこの冊子からは何も返事が返ってこない。そういう意味で聖書はすごいと思う。返事を求めるとクリスチャンでもない僕に対しても返ってくることがある。
 この「幸いな人」という冊子、このような不完全な文章を載せてしまうのはどうかと思うが。神を信じている人にはスッと入ってくるかもしれないが、僕のように神を信じることが出来ていない人間に対しては変な誤解を招くこともあり得る。まあ、この文章を読んで、神と親を天秤にかけてしまっている時点で、僕は大きな誤解をしている可能性大である。

 でも、こういう事考えると、僕は恵まれていると思う。僕の周りのクリスチャンは素敵です。

投稿者 tomo : 27.07.04 04:53 | トラックバック
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