14.06.04

6月14日

 目の動きに視覚が付いてこない。テレビなどで時々このようなものを見る。瞳孔の動きから一瞬遅れて視覚が付いてくる。最初はゆっくりと、そして段々早く。瞳孔の向いたポイントで、ピタッと視点が定まる。やたらに立体感が強調された世界だ。まぶたが重い。それでも眠いというわけではない。
 隣で喋っているのは誰だ。何を言っているのかわからない。意識をそちらに集中する。隣の人間が周りの風景からフワッと浮き上がる。ピントが完璧にあったポートレートのようだ。3,5、1/250。横顔が美しい。僕に何か言っている。

「また私の絵が一枚売れた」
「そうなんだ、どのくらいの大きさ?」
「長細いのよ」
「長細い?」
「え?」
「君、今、長細いって言ったろう」
「そんなこと言ってない、あなた何言ってるの?」
「いや、なんでもない。売れた絵の大きさを訊ねたんだ」
「小さいやつよ」
「そう」
「あなた今、自分が何をすればいいのか、何をしたいのかわかってないんでしょう?」
「そうかもしれない。そろそろ帰った方が良いかもな。無事に帰れるうちに」
「じゃあね」

 質問は理解できている。しかし、僕がその質問にしっかりと答えられているのかが全くわからない。思いっきり見当外れなことを答えているような気がする。なんて訊かれたのか、なんと答えたのか思い出そうとするが、2秒後には全て忘れてしまっている。いや、忘れてしまっているわけではなく、僕の手の届かない場所に記憶が飛んでいってしまうのだ。向こうに行って見えなくなった。
 道はまっすぐ歩けている。集中するんだ。車に轢かれるなんて御免だ。とにかく前にいる人間にぶつからないようにしなくてはいけない。歩道の車道側には近づかないように、確実に前に進む。自分が早足なのか遅足なのかわからない。僕は前の人間を抜いているのか、それとも後ろの人間に抜かれているのか?このまま歩き続けるのが怖い。いつ意識がなくなってもおかしくない。後ろからトラムが来ている。停留所はすぐそこだ。乗れる。
 停車し、ドアが開いたのを確認してトラムに近づく。人が降りてる。全員降りたか?降りたようだ。乗ろう。実際よりも時間の進み方がものすごく遅い。しかし、記憶が飛んでいってしまうスピードは桁外れに早い。あっという間に見えなくなる。
 どうやってここまで辿り着いたんだっけ?僕はどこで降りればよいのだ?Duomo前だ。Duomo前まではあといくつ停留所がある?二つ目だ。次の、次。次の停留所はまだか?今どこを走っているんだ。もう一つ目の停留所は過ぎてしまったのか。記憶がない。
 あ、トラムが停まった。降りよう。あれ?ここまだ1つ目だ。Fnacの前じゃん。なんだ、まだ乗っていて良かったんだ。でももうトラムは行ってしまった。仕方ない、歩くか。ここまで来るのにいったい何時間かかっているんだ?Duomo近くのBarで友人が僕を待っているんじゃなかったっけ?こんな状態で行ってしまって良いのか?気づかれないか?Barで倒れるなんてまっぴらだ。このまま帰ってしまおうか。そうした方が良い。じゃあ友人の携帯にメッセージ入れないと。どこを押せば良いんだ?ここか?これはボーリングゲームではないのか?戻るには?どのボタンだ?
 結局メッセージを送るのを諦めた。行こうか、行くまいか。
 気づいたらメトロの駅を通り越して友人の待つBarに向かっていた。もうどうなってもいいや。調子悪かったらすぐに帰ってこよう。Barには友人達しかいなかった。

 「うぃっす」
「うぃっす」
「空いてるね」
「さっきまでいっぱいだったんだけどね、だからこんな微妙な席に座ってる」
「ここ座っていい?」
「どうぞどうぞ」
「よいしょ」
「仕事終わったの?」
「いや、まだ終わってない。とりあえず休憩」
「そっか」
「水が飲みたい。ものすごく喉が渇いている」
「頼みなよ」
「店員、いないな」
「そのうち来るでしょ」
「そうね」
 
 いつまで経っても来ない。何やってるんだ。今何時だ?わからん。隣でまた何か話している。「運動したい」「水泳が良いね」「でも水泳は痩せてからしかやりたくない」「それだったら絶対にやらないよ」「それもそうかも」ん?運動の話か?『走れば』「走るのだけは嫌」『疲れるしね』手前の友人と、奥に座っている友人を、交互に見ながら話す。視線入力AFのようにピントが合う。普段からこんな風にピント合うんだっけ?俺の目は。「ウィーン、ウィ、ウィー」って音まで聞こえてくるぞ。僕の目を通して写真が撮れそうだ。完璧にピントが合っている。そして、これだけピタッと静止していればぶれることはない。カシャ。
 あぁ、また会話について行ってない。なんで僕は携帯ばっかり弄ってるんだ。何がしたいんだ。メッセージを送りたいのか?誰かに用なんてあったっけ?なんでこんなにバッグを開け閉めしてるんだ。何が欲しいんだ。それよりも、彼らはいったい何を話しているんだ。まだ運動の話か?それにしても、一体いつになったら店員が来るんだ。いや、もう来たっけか?いや、来てないよな。確実に来てない。注文した覚えがない。

 「ごめん、俺そろそろ帰るわ」
「もう帰んの?早くねー?」「そりゃねーべ。なんだよ、何しに来たんだよ」
「悪りぃ、仕事再開させなくちゃ」
「さっきまで仕事してたんじゃないのか?」
「さっきはポルタ・ティチネーゼ、今からサン・バビラだ」
「水飲まなくて良いのか?」
「その辺で安い水でも買って飲むよ。悪いね、お先、お疲れ」

 別に早くねーだろう。結構いたぞ。今何時だよ。あれ?まだ5時じゃん。10分しか経ってねーじゃん。遅いよ、時間。なんでこんなにゆっくり進んでるんだよ。ヤベーよこれ。駄目だ、こんなんじゃ仕事再開できないな。マジで帰ろう。
 地下鉄だ。黄色線。この入り口から入ったら結構遠いな。まあいいや。地上は人でいっぱいだ。いつ誰かにぶつかるかわかんねーし、下歩いていくか。ん?地下道、なんか変わったな?前からこうだっけ?やっぱり下は人少ないな。黄色線、どうやって行くんだっけ。そこを右でまっすぐ行ってロータリーに出て左か。そこを右、まっすぐで、左・・・。この改札か。いや、ここ出口専用だ。入口専用どこだっけ?ってか、俺まっすぐ歩けてるのか?曲がってないか?
 ここだ、入り口。あ、でも俺定期持ってるじゃん、入り口向こうだな。定期はっと・・・。あぁ、もう手に持ってた。いつ取り出したんだっけ?あー、まずいなー、これ。どっち?どっちだ?確か右じゃなかったか?俺はBrentaに行くんだよな。こっちか、書いてあるか?書いてある。何個目?5個目か?数えられない。まあ良い、大体5個目だ。このエレベーターこんなに長かったっけ?ここで足踏み外したら死ぬかなぁ。降りる時注意しないと転んでしまうかもな。
 おいおい、人多いなぁ。こえーなー。バッグだけ前に出しておこう。えーっと、どっちよりにいれば降りてから歩かなくて済むんだっけ?ってか、電車ってどっちから来るんだっけか。こっちか?いや、こっちっぽいな。ドア開くのがこっちだから・・・。わかんないや、こっちでいいや。外れたら歩けば良いだけだ。壁際に立っていないと。ボーッとして飛び込むなんて恐ろしい。
 あ、来た。遠くにいること。近づかない。まだ近づいてはいけない。よし、停まった、近づこう。思ったより空いてるじゃん。良かった。とりあえず寄りかかれるところに行かないと。ここでいいや。座るとそのまま前のめりに倒れそうで怖い。しっかり棒に掴まって立っていよう。ん、前にパンキッシュな奴らが座ってるな。10代後半くらいか?片方こっち見てるなぁ。顔になんか付いてるか?目つきおかしいんかや。まさかこいつ、警察呼んだりしないよな。なんでこんなにちらちら見てくるんだ?俺、相当やばい顔してるのか?車窓に映った俺の顔はいたって普通だが。鏡じゃ見えない何かが付いているのかもしれない。あー、次どこの駅だ?やっぱり前の駅に停まったのがいつか憶えてない。まだ停まってないのか。さっきもトラムの中で同じこと考えたな。
 こいつ、まだ俺のこと見てくるよ。やっぱ目つきおかしいんだろうな。やべぇ。ん?なんだよ、向こうのオッサンまでこっち見てるぞ。それも思いっきり目を合わしてるよ。ってか、俺のところを見てるのか?遠すぎて、視線までわからない。とにかくえらい厳しい顔してるな、あのオッサン。あれ絶対に非難の目だよ。俺のところ非難してるよ。同じ駅で降りたくねー。ん?今ポルロマか。次の次だ。あ、やばい、次出口こっちか。退かないと。
 まだ見てるなー、オッサンも前のパンカーも。このパンカー達、俺んとこ狙ってるんじゃないか?ヤベー、今カメラ持ってるんだよ。頼むから襲わないでくれ。
 よし、Brentaだ。間違いない。降りて良い。急がないと。駅員に密告られたら面倒だ。っていうか、強制送還だ。早く外に出ないと。出来るだけ目を合わさないように、下を向いて急いでる振り。ってか、なんで俺はこんなにびびってるんだ?やっぱり肝小さいなぁ。でも今走って逃げること出来ないしなぁ。よっしゃ、外に出た。また曇ってきたな。今日は涼しいが、手のひらと足からやたらに汗がでる。喉の渇きは治まらない。
 もう少しで家に着く。慎重に、確実に。鍵出さないと、いや、まだ出すの早くないか。途中で落としそうで怖い。まあいいや。しっかり持っていれば落とさない。でも、しっかり持っていることなんて出来るのか。よし、ここが家だ。鍵を差し込め。落ち着いて、震えないように。クソ、やっぱり震える。門の鍵、これで良かったっけ?こっちじゃなかったっけ?これか。よし、開いた。到着した。あと2つ鍵を開けたらあとはベッドに倒れ込むだけだ。早く。よし、帰宅。靴脱いで、荷物を机に置く。スリッパを履き忘れた。冷蔵庫から水を取り出してがぶ飲みする。冷たすぎる。着替えてベッドに倒れ込んだ。
 なんだか眠くない。というか、寝るのが怖い。なんでこんなに臆病になっているんだ。もう家に帰ってきたんだぞ。何も心配することはない。なんだか次から次へとどんどんおかしな想像が膨らむぞ。こんなに想像力豊だっけ。でも、忘れていくスピードもやはり速い。考えついては消えていく。想像しても、5秒もたない。
 血のイメージが多い。やはり僕はびびっている。これからどうなるのか想像が付かない。
 
 気が付いたら眠っていた。2時間近く寝ていたようだ。頭はどうだ?はっきりしているか?いつも通りとはいかないが、さっきよりずっとまともになっているようだ。体にはなんの傷もない。一眼とデジカメはきちんと持ち帰ってきている。どこかに何かを忘れたってことはないようだ。良かった。
 思った通り、段々と記憶が戻ってきた。全てとはいかないが、忘れてはならないことは全部戻ってきている。やはり消滅してはいなかった。まあ、消滅してしまったこともあるのだろうが。

投稿者 tomo : 14.06.04 18:09 | トラックバック